日時

目的地

所在地

2015年11月18日

石動山(564m)

石川県鹿島郡中能登町

 行動日程

資料館(駐車場)11:10〜11:15大宮坊11:20〜11:40行者堂11:40〜11:50石動山山頂11:55〜12:05石動山城跡12:05〜12:15パノラマ展望台12:20〜12:50資料館(駐車場)

 参考資料

Web情報:国土地理院/基準点成果等閲覧サービス(三角点情報)

文献  :

 これまでの山行記録

 

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【地図の説明】 この地図はおおよそのルートをトレースしたもので、正確ではありませんので参考程度にとどめてください。最初はOpenCycleMapが表示されますが、地図の右上にあるボタンにポインターを持っていけば「OpenTopoMap」、「地理院地図」、「空中写真(航空写真)」に切り替えることができます。地図上の赤線が今回歩いたルートです。

≪注:赤枠で囲った写真にマウスポインターを当てると、ルート表示や説明が現れます。≫

金沢に行ったので、山に登ろうと思ったのだが、生憎の雨模様。本格的な登山はやめ、簡単に登れる石動山にした。石動山は能登半島の中央部にあり、山岳信仰のメッカだったところ。それほどの知識もなく行ってみたら、素晴らしい史跡や古道が石動山の峰々に広がっていたので、少々驚いた。史跡としての整備が進んでおり、ちょっとした観光地だ。

林道にあった標識と説明版

林道の様子

ドイツ製のナビ通りのルートを辿ったら、グネグネ道を走ることに。舗装されていたし、石動山の案内標識があったので、この道しかないのだろうと我慢して進んでいくも、途中かなり道が細くなったところがあり、下は崖。ハンドル操作を誤ったら、まっさかさまに落ちるのではないかと思われた。後で聞いたら、「あんな道、地元の人でも通らん」と言われショックを受ける。他に立派な道が出来ていたのだった。

石動山の歴史

史跡石動山の碑

石動山に近づいたところで、右から登ってくる良い道とぶつかった。そこを登ってくれば良かったようだ。ここからは道が良くなり、『石動山の歴史』と書かれた大きな説明版のところに出た。そこから少し行くと、ウォシュレット付きの真新しいトイレがあり、史跡石動山と書かれた石碑があった。そこから登っても良かったのだが、資料館があるはずなので、もう少し進んでみる。

石動山資料館

すると、かなり山深いところに、突然立派な建物が現れた。途中、民家も何軒かあった。民家に人気はない。この辺は雪が2mも積もるそうで、冬場は下に降りてしまい、誰も居なくなるそうだ。左記写真は立派な石動山資料館。脇には立派な駐車場もあった。ドイツ製ナビの所為で、命を落すところだった(ちょっとオーバーか)が何とか人心地がする場所に出て、ほっとする。別に新しい広い道があるので、くれぐれもこの道に入らないように。生憎の雨模様なので、今日は誰も歩いていなかったが、ちょっとした観光地だ。資料館には人が居り、石動山へのルートや見どころを聞く。

 

大宮坊山門

石動山一帯は真言密教の霊場で最盛期には360の坊舎が立ち並んでいたそうだ。それらを支配していたのがこの大宮坊で、最も高い格式と権威を有していたそうだ。建物は平成14年に新しく復元されたものだ。
 

大宮坊

門から入ったところに建物があり、明かりがついていたので入ってみたら、説明をする人まで常駐していた。発掘調査により建物が復元されたそうだ。帰りに、ここで昼食を摂らせてもらった。
 

伊須流岐比古神社拝殿

大宮坊のすぐ横に伊須流岐比古(いするぎひこ)神社拝殿があった。神仏習合の思想により、神と仏が一緒に祀られていた。明治の神仏分離により、寺領は没収され、山中の寺堂も廃されて、神社だけが残った。規模は小さいが勝山市の白山神社平泉寺と同じ命運を辿っている。規模が小さいといっても、石動山は天皇家や加賀前田藩の庇護があり、また北國七ヶ国で権勢を振るい、「泣く子も黙る石動山衆徒」と怖れられていたそうだ。しかし、その七ヶ国(加賀、能登、越中、佐渡、飛騨、信濃、越後)のなかに我越前は入って居らず、石動山がそれほど権勢を誇っていたとの言い伝えは聞こえてきていない。石動山の開山は奈良時代という説が有力なので、1300年の歴史があることになるが、度重なる戦火で何度か消失しており、江戸時代初期に再建されたものが殆ど。この建物も江戸時代初期のもので、石動山山頂に本殿として建てられたものをここに移築したそうだ。

遊歩道の様子

資料館で、殆どの建物は復元されたもので、行者堂が一番古いと聞いたので、行者堂に廻り、石動山に登ることにした。遊歩道は良く整備されている。

 

行者堂

遊歩道を歩いていると、建物があったので行ってみたら、普通の民家のようだ。ここも人気はなかったので、下に降りてしまったようだ。そこから少し行ったところに行者堂があった。資料館でこの建物が一番古いと聞いたのだが、ここにあった説明板を読んだら、ここも江戸時代に再建されたものだそうだ。明治期に廃寺となり、下に降ろされていたものを元の地に移築したそうだ。山岳信仰で最も尊崇される「役行者」が祀られている。
 

登山道の様子

剣の宮跡

行者堂から登りとなり、石段混じりの道となった。途中剣の宮跡、火の宮跡があった。石動山は五社権現と呼ばれていたそうだが、ここにもそのひとつが祀られていた。登山道の周りにはブナが生えていたが、能登半島で唯一の残存林だそうだ。
 

参道の石段

山頂手前の標識

登山道には登りになると、ずっと石段が続いていた。よく踏みまれており、歴史を感じる。

山頂直下の石段

大御前(山頂)と書かれた標識があり、そこから石段をひと登りすると、そこが山頂だった。

 

石動山山頂(本殿)

石動山山頂(565m)まで、30分ほどだった。ここは石動山大御前と呼ばれ、元は本社があった。ここには石動山信仰の中心となる大宮大権現が祀られるとともに、白山より迎え入れた白山姫神が客人大権現と称し、祀られていた。山頂は独峰で見晴らしが良さそうだったが、この日は濃い霧の中で全く展望はなかった。また、風が強く、早々に引き上げた。
 

梅の宮跡

石動山城跡

山頂から石動山城跡に廻る。途中、梅の宮跡があったが、ここにも五社権現のひとつが祀られていた。石動山城は一旦ことがあれば僧兵や石動山衆徒が立て籠もった場所だと見られている。また、戦国時代には上杉謙信勢がここを拠点に戦ったそうである。山頂にはかなり広い平坦地があった。
 

パノラマ展望台(多根道)の標識

庚申塚のある峠

資料館でもらったパンフレットの地図に展望台と書かれてあったので、尾根伝いに展望台に廻る。途中、峠のようなところがあり、庚申塚が置かれてあった。峠の両側に道があった。そこを降りていくと、(富山県七尾市)多根という集落に出るから、多根道と呼ばれていたようだ。このように、石動山に登ってくる道はいくつもあり、そのひとつが多根道だ。峠好きとしては歩いてみたかったが、今日は雨だし、同行者が居るので敬遠した。それらのすべての道を歩けば相当ボリュームのある山歩きが堪能出来るだろう。
 

庚申塚

展望台の登り

庚申塚のある峠から、尾根伝いに歩いていくと、舗装された林道に出る。そこからまた山に入り、展望台を目指す。

パノラマ展望台

パノラマ写真

そこには立派な展望台があり、ここから見える日本海や立山連峰のパノラマ写真があったが、この日は霧が濃く、全く視界は利かなかった。

御廟山

開山智徳上人供養塔

資料館に戻ってくる途中に古い五輪塔があったので、行ってみる。この五輪塔は石動山を開いたと言われている、智徳上人のものだ。ただ、開山には諸説あり、白山を開いた泰澄が開いたとの説もあるようだ。

加賀藩歴代藩主の墓所

遊歩道(旧多根道)

石動山は江戸時代には加賀藩主前田家の庇護も受けており、歴代藩主の墓所もあったが、余りにも墓石が小さいので調べてみたら、前田家の菩提寺は他にあるようだ。資料館に戻ってくる参道の雰囲気が良いので、写真に撮った。この石垣は昔のものなのだろうか。今歩いてきた道が多根道だ。この日は雨で体が冷えたので、2時間ほど歩いて切り上げたが、もっともっと見るところや歩けるところがあったようだ。天気が恨めしい。

永光寺仁王門

帰り道、国道159号線を走っていたら、永光寺という看板が目に入ったので行ってみると立派な寺院があった。永光寺は、二代峨山禅師が輪島市門前町の總持寺と羽咋市酒井町にある永光寺の住職を兼ねていた時に、両寺を毎日往復したことで有名。その道は峨山道と呼ばれ、13里(約52km)の険しい道が残っている。
 

阿吽の仁王様

 

永光寺本堂

 

 

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