日時

目的地

所在地

2016年11月29日

矢戸坂(約560m)

天子山(572m)

白山伏拝(大光寺山/630m)

勝山市矢戸口/大野市大矢戸

大野市大矢戸

勝山市矢戸口/大野市大矢戸

 行動日程

行人岩登山口9:40~9:50休憩所(林道出合)10:05~10:35行人岩10:45~10:48展望台(天子山)11:05~11:20鉄塔11:20~11:25尾根巡視路分岐11:25~11:40無名峠11:45~12:30白山伏拝12:40~12:55矢戸坂12:55~13:00P513m13:00~13:25白山伏拝13:25~14:20尾根巡視路分岐14:20~14:40天子山~15:25行人岩登山口

 参考資料

Web情報:国土地理院/基準点成果等閲覧サービス(三角点情報)

文献  :

 これまでの山行記録

 

地図を全画面表示で開く

【地図の説明】 この地図はおおよそのルートをトレースしたもので、正確ではありませんので参考程度にとどめてください。最初はOpenCycleMapが表示されますが、地図の右上にあるボタンにポインターを持っていけば「OpenTopoMap」、「地理院地図」、「空中写真(航空写真)」に切り替えることができます。地図上の赤線が今回歩いたルートです。

 << 注:赤枠で囲った写真にマウスポインターを当てると、ルート表示や説明が現れます。>>

矢戸坂は勝山市鹿谷地区から大野に行くのに使われた峠。永平寺辺りから大野に行こうとすると、今は九頭竜川に沿った道を使うが、歩くとなるとかなり大回りになるため、昔は鹿谷から山越えの道を使うことが多かったという。また、この峠は鹿谷地区の特産品だった、ござ帽子を大野の市場に出すために使われたともいう。今もその峠道は国土地理院地形図に破線で示されているので、さぞ立派な峠の跡が残っているだろうと、過去に何度か挑戦してみたが、その当時は藪道だったので途中で諦めていた。しかし、最近はこの尾根筋を歩いたという山行情報がチラホラ見られるので、もう一度行ってみることにした。

矢戸坂が越えていた尾根(写真中央やや右)

矢戸坂へのアプローチはいくつか考えられるが、何度か行ったことがある行人岩のルートを選択することにした。中部縦貫自動車道を大野インターで下り、矢戸坂の麓の集落、大矢戸にやって来た。ここから矢戸坂が越えていた尾根がよく見えた。上記写真の中央やや右辺りが矢戸坂の峠だ。中央の右側が切れ落ちているピークが白山伏拝。ここから見てもかなりの急坂だということが解る。今日は左側の稜線に登り、尾根をぐるっと回って峠まで行く予定だ。

行人岩登山口

行人岩休憩所

登山口の状況は前に来た時と同じだったが、小屋は閉鎖されていた。ここには広い駐車場がある。

林道出合

新しい休憩所

登山道を歩きだしたら、以前にはなかった林道にぶつかった。更に登っていくと、新しい小屋があり、休憩所と書かれてあった。また、その近くにも林道が上がってきており、重機が出て林道工事が行われていた。登山道はその林道を横切って上がって行っていたはずだが、その入口が解らない。工事の人に聞いてようやく解った次第だ。10年以上来ていないから、仕方のないことか。中部縦貫自動車道のトンネルが今日行く尾根筋の下をぶち抜いているのも、大きな様変わりだ。

登山口は案内板の後ろ

ここを登っていく

休憩所と書かれた案内板の後ろから斜面に取り付く。道は草が生い茂り、崩れているところもあった。前来た時よりいくらか登山道が荒れている感じだ。あの時はこの登山道を熱心に整備している、ご老人が一人おられて、いつ行ってもその方が山におられたが、お元気なのだろうか・・・。

3合目の標識

登山道はこの斜面を登っていく

この登山道がある斜面だけ、大きな木がなく、展望がいい。道はずっと急斜面をつづら折りに登っていく。3合目辺りから、もう展望が開けてくる。

5合目の小屋

5合目からの眺め

5合目には小さな小屋があり、中にベンチのようなものがあったが、壊れかけていた。今はあまり使われていないようだ。ここからは大矢戸の田園風景がきれいだ。

大岩

大岩が見えてくると、行人岩はすぐだ。

行人窟(岩)

行人窟は山岳修行の場だったようだが、最近まで存在が知られておらず、詳しいことは解っていないらしい。私が知る限り、この山域一帯は昔から山岳信仰色が濃いところで、いわば聖地だったようだ。平泉寺全盛時代には矢戸坂がある尾根筋の末端、今の下新井隧道の上あたりまでは平泉寺の寺域であり、大野市西大月にある禅師峰寺は今は曹洞宗だが、元は禅師王寺といい、天台宗平泉寺の末寺だった。平泉寺は白山信仰の拠点でもあり、これから行く、尾根の一郭には白山伏拝というところがあり、その名残だと思われる。曹洞宗の開祖道元禅師は永平寺が完成するまで吉峰寺に滞在したことは有名だが、この禅師王寺にも滞在したことがある(注1)。道元禅師の書『正法眼蔵』に記載されている禅師峰は下新井から西に続く尾根上の一郭を指していたようだ。その一郭に修行の場があったようだが、それがどこだったかは特定されていない。この尾根筋を地元では禅師王子山と呼んでおり、585.4mのピークを禅師王子山とする説もあるが、勝山市の史蹟整備課などの関係者にお聞きしたところ、禅師王子山という特定のピークはなく、この山域全体(P265.5m~P585.4mの辺り)を禅師王子山と呼ぶのが妥当だと思われる。もし特定のピークを禅師王子山と呼ぶのなら、P265.5mを禅師王子山と呼ぶのが一番ふさわしいのではないかとの勝山市のご回答だった。585.4mのピークは勝山市側の麓、遅羽町では六呂山と呼ばれており、そう呼ぶのがふさわしいと思われる。その六呂山は最近地元の方が登山道を整備されたということなので、一度行ってみたいと思っている。今回もその登山道から尾根伝いに矢戸坂に行こうかとも思ったが、途中の尾根がどうなっているのか解らなかったので、行人岩コースを選択したのである。

注1:『正法眼蔵』の各巻の奥書により、道元がどこに居住していたのかがわかるが、入越当初の道元は閏七月一日から十一月十三日までは吉峰寺において四か月半の間に一六巻の『正法眼蔵』を説示している。十一月六日に説示された『正法眼蔵』(梅華の巻)には「深雪三尺大地漫々」とあるように、吉峰寺は雪の深いところであった。十一月十九日から翌寛元二年元旦までに、禅師峰下の草庵(大野市西大月)において『正法眼蔵』五巻が示衆され、門弟懐奘により二巻が書写されている。禅師峰で正月を越した道元や懐奘は吉峰寺に戻り、正月十一日から六月七日までは同寺にて『正法眼蔵』各巻の示衆や書写を行ない、このときの夏安居(四月十五日から七月十五日の修行)は吉峰寺を中心に行なわれたものと思われる。越前に入国して一年弱の間に、道元は吉峰寺から禅師峰へ移り、また吉峰寺へ戻ったことになるが、周辺の僧侶たちは両寺間を往復しながら修行生活を続けていたのではないかと思われる。(『福井県史通史編2第一章第七節の二「永平寺の開創」』より)

行人岩

岩に刻まれた経文

ここには岩に刻まれたお経や線刻画がたくさん見られる。修行の場だったようだが、最近になるまで存在を知られていなかったらしい。

展望台へ

展望台

行人岩から一歩登ると、展望台がある。ここは天子山と呼ばれている。ここで小休止し、先を目指す。

経ヶ岳

大野盆地、荒島岳を望む

展望台からは大野盆地が一望にできる。経ヶ岳や荒島岳も見渡せたが。雲が多く、展望がいまいち。白山も見えるはずだが雲の中で全く見えなかった。

展望台から先は藪道

尾根道の様子

前に来たときはここから先もきれいに藪が刈り払われていたのだが、今回は藪道となっていた。

鉄塔

巡視路標識

途中に鉄塔があり、ここからは巡視路で藪がきれいに刈り払われていた。途中、巡視路の標識があり、ここからも大矢戸のほうに下りていくことができる。

快適な巡視路

巡視路から尾根へ

快適な巡視路歩きもすぐに終わり、道が下りになるあたりから右の尾根に取り付かねばならない。一時はこの尾根も藪が刈られたようだが、今は藪道に戻ってしまっており、どこから取り付くのかも迷う状態だ。ようやく、それらしい場所を見つけ尾根筋に取り付いたが、細い枝が体に引っかかり歩きにくい。

峠か??

最初のピークを下りてすぐの尾根上に上記写真のような窪みがあった。明らかに峠の跡だと思われるが、ここに峠があったという情報は全くない。しかし、覗き込んだところ大矢戸側に峠道のような痕跡があったから、ここにも峠があったと思われる。そこから10mも歩かないうちに、もう一つ同じような峠の跡があった。これほど近距離に峠道があるのは不自然なので、城の堀切跡かとも思ったが、この尾根筋に城が築かれたという情報はないので(寺院はあったようだが)、峠の可能性が高いと思われる。峠が二つあるのは道を付け替えたからだろう。

一番目の峠

一番目の峠は掘れ方が1mちょっとだがくっきりU字型が残っている。こちらの峠も両側はかなり急斜面となっているが、大矢戸側には峠道だと思われる痕跡があった。

二つ並んだ峠

二番目の峠はすぐ先にあった。距離的には10mも離れていないかもしれない。

二番目の峠

二番目の峠跡は一番目の峠より少し掘れ方は浅いが、形状はほとんど同じ。こちらの峠道の痕跡は全くなかった。

尾根道の様子

平坦になった尾根筋

尾根道は、途中歩きやすいところもあるのだが、草が生い茂ったところがあり、かなり苦労させられた。途中に平坦なところが何カ所かあったが、ここにも寺院関係の建物が建っていたのだろうか。

白山伏拝(檜の根っこに石碑)

巡視路分岐から白山伏拝(P630m)まで1時間ほど掛かった。白山伏拝とは白山を遥拝した場所のことで、県内には何ヶ所も伏拝と呼ばれる場所がある。頂上は広い平坦地となっており、ここに大光寺というお寺があったようだ。

伏拝の石碑

同左

ここある大檜の下に石碑が三つ並んでいる。一つには白山伏拝と書かれた文字がはっきり見える。その横の石碑には「天保十一戌年三月」と薄っすら読めるが調べたところ、天保十一年は戌(いぬ)年ではなく、子(ね)年となっている。”戌”ではなく、”戊”の可能性もあるが、天保十一年は庚子(かのえね)となっており、合わない。こういった石碑の年代表記は年号(天保)+十干十二支(庚子)で書かれていることがほとんどで、年号の後に十二支だけ書かれているのは見たことがない。その隣の石にも年代が刻まれており、戊子(つちのえね)三月と読める。天保十一年の近くで、戊子の年は文政11年(1828)、明治21年(1888)となるが、よく解らない。

登山道入口

ロープ場

石碑はすぐに見つかったが、伏拝から先の尾根筋が切れ落ちており、登山道が見つからない。広い山頂をあちこち探し回ったら、今登って来た方向をまっすぐ行ったところに藪が少し薄いところがあった。そこを覗き込むと道のようなものがあったので、半信半疑で下りて行く。するとロープ場があったので、ここで間違いないことが解った。聞きしに勝る急坂だ。帰りにも同じ道を使ったが、登りではそれほど気にならなかったから、この尾根を歩こうと思うなら、逆から登ったほうが良いだろう。反対側からだと、道も解りやすい。

尾根道の様子

道脇にあるのは薄墨桜か?

急坂を下りきると、穏やかな尾根道となった。最近藪を刈ったようで、歩きやすい。それが解っていればこちら側から登って来るんだった。尾根道の脇には薄墨桜と思われる木が何本かあった。その時期に来ればさぞきれいだろう。

窪みが尾根を横切る

この尾根のどこかに峠があるはずだ。以前ここを歩かれた方の情報によれば峠の痕跡はなかったということだったので、目を皿のようにして尾根道を進んでいく。すると、薄く掘れた窪みが尾根を横切っているのを発見。これが矢戸坂の峠だと思われた。かなり使われていた峠だったはずだが、峠の掘れ方は浅い。

峠の痕跡(矢戸口側を見る)

峠の痕跡

峠の両側は崖のような急斜面であり、そこを覗き込んでみたが峠道の痕跡は見当たらなかった。しかし、ここが矢戸坂に間違いないように思われる。この尾根の両側はかなり急なので、つづら折りの峠道が両側から上がって来ていたと思われるが、あまりに険しいので、付け替えられたのではないだろうか。先ほどあった峠のほうが窪みがはっきりしており、掘られ方が深いから、近年になってからはそちらのほうが主に使われたのかもしれない。他にも掘れ方は浅いが、尾根を横切っている窪みがいくつかあった。

P583m

P583mの先に続く登山道

矢戸坂から少し先に上記のような小さなピークがあった。P583mだと思われる。その位置から考えても峠の場所は間違いなように思われた。ここに「大野方面・弁天岩・網岩」と書かれた標識がぶら下がっていた。矢戸口からここまで上がってくる登山道があるのは知っていたが、前回歩いたときはひどい藪だったので途中で敗退していた。藪がないのなら、こちらのほうから上がってくればよかったと後悔した。しかし、後で調べたところ、弁天岩・網岩は矢戸口に下りていく登山道ではなく、ここから六呂山(P585.4m) のほうに向かう尾根筋にあることが解った。標識にも大野方面と書いてあるから、大野側に下りていく登山道があるようだ。どちら側の登山道が刈り払われたのか知らないが、ここから大野側に下りれるなら、その登山道を使ったほうが楽だった。しかし、その道がどこに下りていくのかも解らなかったし、藪道だったら同じことなので、今来た道を戻った。結局、往復5時間、藪漕ぎのレベルとしてはそれほどハードではなかったものの、久々に長丁場の藪漕ぎを堪能し、満足して家路についた。

帰り道に白山伏拝を望む

 

Back ホームへ

inserted by FC2 system