日時 |
目的地 |
所在地 |
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2017年3月4日 |
法度坂(約170m) |
丹生郡越前町大谷寺/福井市笹谷町 |
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行動日程 |
大谷寺~(車5分)~越知道入口~(徒歩10分)~峠のお地蔵さん~(徒歩3分)~法度坂~峠下の池~(藪漕ぎ)~峠のある尾根~峠のお地蔵さん~越知道入口 |
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参考資料 |
Web情報:国土地理院/基準点成果等閲覧サービス(三角点情報) 文献 : |
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これまでの山行記録 |
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<<注:赤枠で囲った写真にマウスポインターを当てると、ルート表示や説明が現れます。 >> 越知山は泰澄大師の開山とされ、山岳信仰の霊場で、山頂付近に越知神社、山頂には奥の院が置かれている。泰澄が最初に修業した場所がここだと言われており、白山信仰の拠点勝山の平泉寺と並び称される。越知神社は天正年間の戦火で焼失したが、江戸時代に福井藩祖・結城秀康が祈願所としたことから再び栄え、多くの参詣者で賑わった。その当時、福井城下から越知山に参詣するために使われたのが「越知道」で、その道中にあるのが法度坂だ。江戸時代の越知山大谷寺の境内はこの峠が境となっており、法度坂から一歩中に入ると大谷寺の規則に縛られたため、その名がついたという。大谷寺は神仏習合が行われていた江戸時代まで別当寺(神社を管理するお寺)であったが、神仏分離により、越知神社と大谷寺に分けられ、一時は廃寺となっていたそうだが、その後天台末のお寺として復活している。なお、大谷寺にも越知山・奥の院・別山がある。
法度坂は旧清水町(現福井市)と旧朝日町(現越前町)の境にある峠で、福井から来て、この峠を越えると大谷寺となる。今回は反対側からアプローチしたので、大谷寺の前を通り、坂道を登っていった。なお、帰りに大谷寺によってみたら、気さくにもご住職が出てこられ、お話を伺うことが出来た。
まっすぐ坂道を登っていくと、道が大きくUターンするところがあり、その手前にアスファルト舗装された大きな空き地があった。そこに車を停めて歩くことに。
越知道入口の10mほど南側に丸山(円山)石造宝塔の石柱があったので、そちらによってみる。
丸い塚の上に登ると、上記の石塔があった。この石塔について、越前町発行の「広報えちぜん(平成28年1,2月号)」に記載があったので、要約します。なお、宝塔登り口にあった石柱には丸山石造宝塔となっていたが、広報では円山宝塔となっているので、以後円山と表記します。宝塔があるあたりは「三昧谷(さんまいだに)」と呼ばれており、昔は墓地だったのではないかと見られている。宝塔の前には平坦地が広がっているが昔は深い谷だったのを、土を盛って平坦にした。その上に更に土盛し、塚を築造したことが発掘調査により解っているそうだ。この辺りの字は「三辻(みつじ)」と言い、旧道が交わる場所で、交通の要衝だった。宝塔は笏谷石(福井市の足羽山で採れる石)製で、台石の部分に刻まれた年号から、観応3(1352)年に造られたとみられている。この辺りは昔から人の往来がさかんで、人の目を引くように塚と石塔が造られていることから、何らかのモニュメントとして造られたと考えられる。宝塔の下に遺骨を納められるようになっているから、高僧など特定の人物の遺骨を納め、供養するために造られた可能性が高いという・・・この辺りは今はひっそりとしていて、人通りはほとんどないが、昔は多くの人通りがあったのは間違いないようだ。
旧道入口にお地蔵さんがあり、その脇にあった道しるべには「右ふくい、左やまみち、左をちさん」と書いてある。「右ふくい」と書かれているところを見ると、明らかに越知道の道しるべに違いない。
「左りをちさん」と書かれた道しるべは江戸時代のものだと思われるが、文字がはっきり深く彫られており、今になっても風化は感じられない。
越知道はすぐに掘れた道となった。ここも孟宗竹で鬱蒼とした竹藪の中の道だった。
道の真ん中に立派な孟宗竹が生えていた。大きなタケノコが採れたと思うが、誰も持って行かなかったようだ。
道は100mも行くと左側が開け、墓地になっていた。どこにでもあるような墓地だったが、古そうな墓が多かった。三昧谷と関係があるのかどうかは不明。
上り坂はここまでで、峠らしい雰囲気があったからここが峠かとも思ったが、後で大谷寺のご住職にお聞きしたところ、まだ先だということが解った。そこからは藪道だったが、歩けないことはない。
旧峠道は車道の一段上に並行に走っていた。道幅は一間ほどあり、平坦にならしてあるから、昔は主要幹線として手が加えられていたと思われる。
そこを200mほど行くと、お地蔵さんが現れた。脇には宝塔の頭の部分と思われる石が並んでいた。峠はまだ少し先だったが、これは峠のお地蔵さんだと言ってもいいようだ。元は峠にあったのかもしれない。ここから少し行くと旧峠道はすぐに車道に合流した。
車道の緩い坂を登っていくとすぐに、この道路の一番標高が高いところに出た。今は車道となり、削られてしまったが、古い峠は車道の上にあった。
峠から少し下りたところに左記のような石柱がある。不思議な形をした石柱だが、微かに白山と刻まれた文字が読み取れた。後でご住職に伺ったところ、昔はここから白山を遥拝したそうで、ここに鳥居があったという。その残骸ではないかと言うことだった。
峠から車道を反対側に下りて行ったところ、展望が開けたところに出た。今日は曇り空で白山は見えなかったが、天気が良ければ見えるのではないだろか。
そのあたりに小さな池があり、その淵に道跡らしきものがあったので、そこを入って行った。しかし、道跡はすぐになくなり、急斜面となった。ここに旧道があった可能性もあるが、道路工事で旧道がどこにあったかも解らない状態になってしまっている。この後車道に出ないで、峠から続く尾根まで登ってみたが、道跡らしきものは発見できなかった。尾根から峠のお地蔵さんが見えていたので、そのまま山の斜面を滑り降り、お地蔵さんのところに出て、旧道を歩いて車に戻った。
帰りに大谷寺によって、来訪を告げたところ、奥さんが出てこられ、越知道の道しるべがあると、上記の石柱を見せてくれた。最近近所の人が山の中にあったと持ってきてくれたそうである。その後、ご住職を呼んでいただき、お話を伺うことが出来た。法度坂の場所については資料が乏しく特定が難しいのではないかと思われたが、ご住職のお話により、すぐに法度坂の場所を特定することが出来た。感謝感激である。ここ大谷寺は泰澄入寂の地であり、泰澄大師の廟と伝わる、石造九重塔(国指定の重要文化財)がある。台石に元享3年(1323)の紀年銘が刻されている。最近裏山の発掘を行ったところ、古い須恵器が出てきており、いずれその墓も発掘調査したいとのことだった。大谷寺の裏山にも越知山があるのはどうしてかお聞きしたところ、泰澄は越知山(612.3m)で修業する前に、ここで修業しており、越知山の元祖はここだそうだ。そのため、泰澄はここに愛着があり、入寂の地として選んだのではなかろうかとのお話だった。ご住職は越知山(612.3m)を西の越知山と呼ばれていた。泰澄は架空の人物だとの説もあるが、ご住職は草壁王子との皇位争いで失脚した大津皇子の子、粟津王が泰澄ではないかとのご高説を伺った。泰澄は加賀の粟津温泉を開湯したことは有名だが、粟津は粟津王から来ているのではないかとのことだった。 越知山と同じく、白山信仰の越前における拠点だった、平泉寺白山神社は今大々的に発掘調査を行い、その広大な境内の全貌が明らかになりつつある。ご住職もここ越知山大谷寺の発掘調査の推進運動を続けておられるそうだ。何れ、その全貌が明らかになることを願いたい。ついでに、同じく白山信仰の拠点だった、丸岡の豊原寺もお願いしたいのもである。今回歩いてみただけで、越知道の痕跡がかなり残っていることが解った。江戸時代の越知山参りがかなり盛んだったことは間違いない事実のようだ。機会があれば、今後も越知道や泰澄の道を歩いてみたいと思う。 |