日時 |
目的地 |
所在地 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2017年12月4日 |
長峯古道(約70m) 石峠(約50m) 土峠(約50m) 勘定峠(約50m) |
小松市木場町/同市波佐谷町 小松市蓮代寺町/長谷町 小松市蓮代寺町 小松市東山町 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
行動日程 |
長峯古道跡:徒歩片道およそ20分 今回の他の移動は車でしたので省略します |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考資料 |
Web情報:国土地理院/基準点成果等閲覧サービス(三角点情報) 文献 : |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これまでの山行記録 |
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<<注:赤枠で囲った写真にマウスポインターを当てると、ルート表示や説明が現れます。>> 小松市の東には100mに満たない低山が連なる丘陵地帯がある。国道8号線を走る度、この丘陵地帯が気になっていた。この丘陵は加賀平野と大杉谷の間におよそ3㎞の幅で広がっており、大杉谷の人々が加賀平野に出る時にはそこを越えなければならなかった。そのような道が昔は多数存在していた。今回それらの峠道をいくつか歩いてみた。
長峯古道は旧大杉谷村の人々が木材などを木場潟まで運んだ道で、そこからは舟運が利用されていた。木場潟にはその舟着場が復元されているそうだが、この日の古道歩きは木場町内を通る部分を省略して、国道8号線木場インターから。とは言っても長峯古道はそのほどんどが市道木場波佐谷線となっており、車での移動となった。市道も何度か改修されているようで、インター近くの原っぱにも昔の道跡と思われるアスファルト舗装が残っていた。
長峯古道があったルートは今は市道木場波佐谷線となっており、幅の広い立派な道路に生まれ変わっている。改修は何度も行われており、最近では10年ほど前にも行われている。
古道の痕跡が残っていないか注意深く見ながら車を走らせると、地蔵公園と書かれた小さな公園が現れた。
そこにあった東屋の中にお地蔵さんが祀られていた。
一口生水(ひとくちしょうず)の謂れが書かれた碑があり、それを読むと昔は木場と大杉谷郷の波佐谷を結ぶ道がここを通っており、ここを通る人々はこの湧水でのどを潤したと書かれてあった。今は広い舗装道となっているが古道がここを通っていたのは間違いないようだ。
地蔵公園からしばらく行くと、ゴルフ場の陸橋が見えてきた。この道路の両側は今はゴルフ場となっており、ここにあるのはコースをつなぐ連絡橋だ。
この道の一番標高が高い場所にやってきた。最高所と言っても標高70mほど。この北側にも廃道が残されていた。
廃道は100mほど、道路をまっすぐにするのに伴い、取り残された廃道だ。
廃道は落葉や枝が積もっていたが、下を見てみると舗装してあった。道幅も広く、改修前はこの道跡が市道だったようだ。その北斜面に切れ込みがあったので、そこを登ってみる。
するとまた道跡が現れた。この道は舗装されていなかったから、歩く時代の長峯古道跡なのかもしれない。
そこから少し行くと、長峯古道の案内板があった。その時は解らなかったが、ここを右折すれば、長峯古道の入口があったのだった。ここからは眺望がよく、天気が良ければ白山が望めたはずだ。ここから市道は下り坂となった。長峯古道は今の市道ルート沿いにあったと思い込んでいたので、そのまま車道を進んで、平地まで降りてみたが、古道跡が見当たらない。それで、もう一か所目をつけておいた場所に向かう。市道より少し南に行ったところにある場所だ。地図を見ると、そこに破線の道が描かれている。
そこに行くと、狙い通り、長峯古道の案内板があった。
ここの案内板は先ほどあった案内板と文面が全く同じだ。内容を読むと、昔は大杉谷の人々が薪、木炭、木材などを人馬の背に載せ運んだ道だったが、ぬかるんだところが多く、通行に支障をきたしたため、江戸後期に切り石を数百枚敷き詰め、歩きやすくしたとのことだ。その敷石が今も残っているというので、勇んで入って行った。
最初はよく整備された道で、ぬかるんではいなかった。道幅も一間ほどはある。
しかし、少し進んでみるとぬかるんで道か小川か解らないところが出てきた。小川を渡渉するようなところもあった。しかし、定期的に手が入るようで、笹を刈った跡があった。
この辺りは笹藪がひどかったが刈った跡があり、また道のルートを示すように紐が張ってあった。
杉林の中の道を進んで行くと、前が明るくなり、工場のような建物が現れた。この辺りでは元の道跡と思われる場所が藪となっており、歩けないので、一段上を歩いた。
谷筋に道があったと思われるが、そこは水たまりとなっており、今は歩けそうにない。ここからは緩い上り坂となっており、また古道跡が現れたので、そこを上がっていく。
するとすぐに道の真ん中に石が敷かれているのを発見した。
敷石は50mほど続いていた。案内板には長さ三尺、幅一尺八寸となっていた。長さは1mほどだから、そんなものだろうが幅はそれほどないように見えた。敷石を発見したのはここだけだったが、数百枚並べられたというから、今は水たまりとなっている古道下にその敷石が眠っているのかもしれない。
敷石があったところからすぐに古道は終わりとなり、舗装路に出てできた。そこには長峯と書かれた小さな標識があった。
正面には太陽光発電施設があった。ソーラーパネルの横をまっすぐ進んで行けば市道の案内板があったところに出る。
古道もここを通っていたようだが、雨がぱらついて来たので、ここで引き返すことにした。
古道入口まで戻ると、道を挟んで反対側に古道が続いているのが見えたので、そこを進んでみる。道は小松市瀬領浄化センターの前を通って、瀬領町のほうに進んでいた。
古道は瀬領町のほうに向かう車道に出てきた。ここで、長峯古道の探索を終え、山ん街道に向かう。
山ん街道(山街道)は大杉谷と蓮代寺を結んでいた峠道。国道416号が開通する前はかなり使われていたそうだ。舗装されていないが今も車で走れる。
大杉谷側からこの道に入ると、すぐに石峠が現れた。道の両側が崖になっており、掘削される前はもっと険しい峠だったと思われる。
道は普通の林道と言った感じだが、下は平坦で固く踏みしめらており、轍も少ない。未舗装とはいえしっかりした道だ。
山ん街道をさらに進んで行くと、三差路に出た。この辺りは広い空き地が広がっており、昔は何らかの施設があったようだ。電柱が並んでいた。また、小屋のようなものがあったから、集落があったのかもしれない。三差路を右に進んで行くと、土峠が現れた。
土峠も石峠同様、道が掘り下げられ両側が崖になっていた。
峠のすぐ先に小さな広場があり、そこに宝達権左の石地蔵があり、謂れが書かれてあった。
それによると、水不足に悩む蓮代寺の農民は蓮代寺のほうに水が流れるのを邪魔していた土峠の下に地下水路を掘ることを思いつき、鉱山がある宝達村から坑夫を呼び、地下水路を掘ってもらった。無事工事が終わり、水が蓮代寺側に流れるようになったが、その時工事で亡くなった宝達村の権左を弔うために石地蔵が祀られたそうである。ここにあるのは平成20年に再建されたもの。
土峠から平地に出てくる辺りに大きな溜池があった。これは先ほどの地下水路とは関係ないが、灌漑のために造られた溜池だろう、「中の堤」と呼ばれているそうだ。
そこから下っていくと、国道8号線の下をくぐり、蓮代寺町に出た。町内の道を通って、東山町に向かう。途中国道416号線を横切り、東山町内の道を通って、再度山に入っていくと、左に折れる道があったので、そこを入っていく。最初は舗装された林道だったが、勘定峠の少し手前で砂利道となった。勘定峠手前で車から降り、散策していると。道の先のほうに何やら大きな動物が2頭いる。体長は1mを超している。200mほど先だ。最初熊かと思ったが、牙が見えたのでイノシシのようだ。イノシシは私のほうを向き、睨んだ。これはまずいと思ったが、数秒睨んで退散してくれたので事なきを得た。この辺は人里に近く、豊富な餌があると見えて丸々と太っていた。
勘定峠は大きく掘り下げられ、両側が切り立った崖になっていた。かなり昔からこの峠の形状は変わっていないそうだから、大きな機械がない時代に人力で掘り下げられたようだ。相当な時間と労力が必要だっただろうから、この道の重要性が解るというものだ。
勘定峠の名前の由来は東山町が昔は勘定村と呼ばれていたことによるようだ。このすぐ近くを走る国道416号が開通するまでは、この峠道が頻繁に使われていたという。
崖の一郭に穴があり、お地蔵さんが祀られていた石祠が残されていた。ここにあったお地蔵さんは今は江指村の神社に祀られているそうだ。
勘定峠を降りていくと、なかじま橋と書かれた小さな橋に出た。危険と書かれてあったので、この橋は渡らず、左折し川沿いの道を進む。地図をみると勘定峠の500mほど東にトンネルが描かれている。ネットで調べてもそれについて書かれたものがなかったので、それを見るのがこの日の最後の課題だ。
そのトンネルに入っていく道はすぐに見つかった。普通の林道だ。車でも入って行けそうだったが、今日はあまり歩いていないので、歩いてみることに。
途中、鉄塔巡視路入口があり、そこまでは草がなかったが、そこから先は少々草っぽく荒れていた。
10分ほど進むと林道終点が現れた。終点はかなり広い空き地となっていたがどこを見渡してもトンネルらしきものはない。この正面にトンネルの入口があったと思われるが、その痕跡は解らなかった。
少し山に入って、その辺を散策してみたがそれらしきものは見当たらない。山の鞍部が見えたので、その近くまで行ってみたがその痕跡はない。トンネルを掘るほど、このルートが重要なら、山の鞍部に峠があっても良さそうなのだが、昔の峠道や峠の痕跡も感じられなかった。
山の斜面に不自然に垂直なったところがあり、これがトンネル口跡ではないかと推測したが、その可能性は低そうだ。古い航空写真を見ると、このトンネルの先に鉱山のようなものが見えるから、それと関係があるのかもしれない。察するに、地図に描かれたトンネルは昔の手掘りの隧道で、入口は埋められてしまい、解らないのではないかと思われる。 |