日時 |
目的地 |
所在地 |
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2017年4月4日 |
志比城山(473.8m) (波多野城山) |
永平寺町花谷/同町光明寺/谷口 |
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行動日程 |
【4月4日】登山道入口11:00~11:15丸太のベンチ11:15~11:30石碑(鉄塔)11:30~11:50林道終点(往復) 【4月10日】丸太のベンチ13:20~13:30道路工事現場13:30~13:35丸太のベンチ13:35~13:40掘れた古道分岐13:40~13:50荒土線20号鉄塔13:50~14:00九頭竜幹線84号鉄塔14:00~14:20P379m14:20~14:30稜線14:30~14:40林道出合14:40~15:00城山山頂15:10~15:15花谷林道終点15:15~15:40巡視路入口15:40~15:45荒土線20号鉄塔15:45~15:50掘れた古道分岐15:50~16:00林道出合16:00~16:05連絡道入口16:05~16:20丸太のベンチ |
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参考資料 |
Web情報:国土地理院/基準点成果等閲覧サービス(三角点情報) 文献 : |
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これまでの山行記録 |
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<<注:赤枠で囲った写真にマウスポインターを当てると、ルート表示や説明が現れます。 >> 永平寺にある志比城山(ほかの城山と区別するためこのHPでは志比城山としているが、波多野城山、花谷城山との名称も使われている)は南北朝時代の築城と言われている波多野城があり、たくさんの郭跡や堀切、畝状竪堀、土橋などたくさん遺構が残されている。この城は越前地頭波多野氏が築城したとされ、ふもとの永平寺町谷口にある波多野氏館跡から波多野城に登る連絡道(以降連絡道と記す)があった。この山には林道城山線を利用して登ったことがあるが、昨年波多野氏館跡がある側から道が出来たというので行ってみた。 【4月4日の山行】 この山には過去に一度登ったことがあるが、今回は反対側の永平寺町花谷から登ることにした。その登山道は昨年地元の方々が新しく開発した道で、前から一度行ってみたいと思っていた。今日は何の用意もしてきていなかったが、近くに来たので、ふらっと登ってみたくなった。街着とスニーカーと言ういで立ちだ。
登山口に行くと立派な駐車場があり、トイレまで完備していた。たくさんの車が停まっていたので、陽気もいいしたくさんの人が登っているのかなと思ったら、工事関係者の車だった。
標識に従って、歩いていくとすぐに工事中の中部縦貫道路のところに来た。道路の下をくぐって歩いていく。
トンネルをくぐると、工事中。ここに標識があり、林道を直進するようになっていたので、ダンプの脇を通って林道へ。
幅の広い立派な林道を歩いていくと、林道脇に古道と思われる掘れた道があった。この道はすぐ先の林道に出て来てしまったが、今日歩いた中では唯一のはっきりと解る古道跡だった。
その続きの古道だと思われるものがすぐ先の谷筋に続いていたが、道の痕跡は薄かった。この辺りには波多野氏館跡から山城へ登っていく連絡道があったはずなので、よく目を凝らして歩いたが他にそれらしい古道跡はなかった。波多野氏館跡は花谷ではなく、隣の谷口にあり、そこから2m幅の古道が残っているとのことだったが、今回開発された登山道はそれとは別のようだ。
この登山道はずっと林道歩きのようだ。今日は行けるところまで行って、道が悪くなったら引き返そうと思っていたが、これなら上まで登っていけそうだ。途中丸太で出来たベンチがあった。この場所は尾根上の一郭で、下から上がってくる道跡が薄っすら残っていたが、城に登っていく道にしては細すぎる。
ちょうど中間地点に送電線鉄塔があり、素晴らしく展望がいい。九頭竜川をはさんで対岸にあるのは浄法寺山。ここはその素晴らしい展望台だ。ここには石碑のようなものがあった。石碑のようなものと書いたのは、その石に何も書かれていないからだ。しかし、石は平坦に削られたような跡があり、その石の前にも供え物をするような平坦な石があり、自然石には見えない。先ほどの古道はこの尾根筋に上がってきていた可能性が高く、その道が城と関係あるなら、この石もただの石ではない可能性が高い。なお、地元の人もこの石が何なのか解っていないそうだ。
50分ほどで林道終点に着いた。ここにも何台か駐車できるスペースがあったが、林道は関係者以外通行禁止だ。頂上まで行っても、1時間ほどだから歩こう。
波多野城については説明板のとおり。
ここからは階段混じりの急登。城としては堅固な守りだ。ここまで来たら山頂まで行ってみる気になった。
しかし、勇んで登って行ったら、残雪があり、足を取られてコケてしまった。暑くなって汗ばんできたので、上着を手に持って歩いていたのが災いし、上着を汚してしまう。ズボンにも少し泥がついた。その上、先日やっとで見つけたカメラにも泥が付いた。意気消沈。もう登る気は失せた。
持ってきたティッシュでカメラを拭き、ズボンや上着の泥を払って、早々下山することに。この山には以前に登っているので山頂に未練はない。その時の記録はこちら。この登山道はすべて林道歩きだが、自宅から近く、景色もいい、手軽に登れる山のレパートリーがひとつ増えた。今度ここに来ることがあれば、下(波多野館)から波多野城に登るのに使われたという道を歩いてみたい。
【下準備】
波多野氏館と波多野城を結んでいた連絡道について調べてみたところ、福井考古学会会誌第6号(福井考古学会/1988年8月発行)にその記述があったので、ここに掲載します。同誌P51に掲載されていた地図は上記の通り。上記1の波多野館跡から城山2に至る点線が、両者をつなぐ連絡道だったそうです。
その道は今回歩いたルートと一部交差している。その場所はベンチがあった地点(上記掲載の『丸太のベンチ』の写真)だが、道の痕跡は薄い。そこに見えていた道は踏み跡と言いってもいいもので、尾根筋には必ずと言っていいほどこのような道跡が残っているから、歴史のある道には見えなかった。
その道は一部、送電線鉄塔がある尾根を通っているので、下から歩けない場合は巡視路からアプローチできそうだ。
上記写真は反対側の林道城山線からの城山登り口で、そこから少し登った地点に上記のような場所がある。下記図で水の手郭と表示されている地点。
志比城山山頂には三角点があり、ここに郭Aがあったことになっている。
解かりやすい縄張図があったので、ここにご紹介しておく。出典は、永平寺教育委員会が出した『越前波多野城跡を歩く。』というパンフレット。 【4月10日の山行】 また近くに行く用事があったので、前回歩けなかった、波多野館と波多野城を行き来していたという連絡道(以下連絡道とのみ記す)を歩くことにした。連絡道について調べてみたところ、福井考古学学会会誌にそのルート地図が載っていたので、それを参考に歩いてみることにした。
波多野城の築城は南北朝時代と言われており、700年ほどの歴史を持つことになる。戦国時代の遺跡である、朝倉氏の一乗城山には馬出し道など、今でもはっきりした道の跡が残っているが、この城はそれより歴史が古いからなのか、今回歩いてみて、道の痕跡は薄かった。ほとんどが藪に埋もれており、昔の城跡との関連を思い起こさせるものは少なかった。私が求めていた掘れた歴史を感じさせる道が残っていなかったのは残念だ。
連絡道の地図を入手したというものの、小さな地図なので、詳しいことが解らない。最初谷口の波多野館跡周辺を物色してみたが、現在工事中で、あまり入って行く気になれなかった。近くにいた地元の人に連絡道について尋ねてみたが、その道の存在は知っているが、詳しいことは解らないとのことだった。仕方ないので、先日歩いた登山道から連絡道にアプローチすることにした。しかし、実際には上記写真の高架の下に見えている溜池の堤のところに連絡道入口があったのだった。
昨日、花谷地区で城山登山道祭りが行われたそうで、桜は満開。地元の方が後片付けしていたので、連絡道について少しお話を伺ったところ、その道はまだ開けておらず、藪で歩けたものではないだろうとのことだった。その方も連絡道の入口はご存じなく、やはり目を付けていた登山道途中からアプローチするしかないようだ。
前回(4月4日)歩いた花谷の登山道入口から林道に入って行く。途中、上記写真のベンチがある。この地点の尾根筋に連絡道があったはずなので、ここから尾根筋を波多野館跡のほうに下りてみた。
しかし、ただの藪道で、古道の雰囲気はない(しかし、後でこの道が連絡道で間違いないことが解った)。
尾根筋をまっすぐ進んで行く。踏み跡程度で、道跡と言えるものはない。
尾根筋をまっすぐ歩いていくと、前が明るくなり、道路工事現場が現れた。斜面は削り取られ、急坂でこれ以上進めないので、元に戻ることにした。
丸太のベンチのところに戻り、今度は連絡道が通っていたと思われる尾根筋を城山に向かって登っていくことにした。
連絡道があった尾根は林道工事で削られてしまっているので、林道のり面から急斜面に取り付いた。イノシシの足跡がたくさんあり道のようになっていたので、そこをよじ登った。かなりの急登だったが、何とか尾根に到達した。
そこからは尾根筋に道らしきものがあったが、踏み跡程度。掘れてはおらず、歴史は感じられない。
地図を見ると、登り一辺倒のように見えるが実際歩くと小さなアップダウンがいくつもある。
連絡道があったと思われるルートはすべて尾根筋で、薄っすら道跡のようなものがあるが、このような踏み跡はどこの尾根筋にいってもあり、城に登っていくのに使われたという雰囲気は感じられない。
尾根筋の途中にはかなり藪の濃いところや、いくつかのアップダウンがあった。そこをしばらく進んでいくと、尾根筋に掘れた道跡が上がってくるところがあった。この道については後で歩いたので、後述します。
その掘れた古道があったあたりから、掘れた尾根道となった。急坂の部分ではつづら折りに掘れた道が続いていた。
急坂をつづら折りに掘れた道が登っていたが、その掘れ方は浅い。
鉄塔のところではかなりはっきりした掘れた古道の跡が残っていた。
ここには二本の送電線が走っており、ここにあるのは荒土線20号鉄塔。
掘れた道とは別に巡視路は直線的に尾根を登っていた。ステップが設けられており、かなりの急登だ。
鉄塔の上にも掘れた道は続いていた。古い道は今は使われることもなく、藪に戻ってしまっている。
ここで掘れた道は終わりとなった、掘れた道になってから100mほどしかなかった。
ステップが設置された巡視路は尾根筋に続いていたが、連絡道も同じところを通っていたと思われるが、この急坂を馬が登って行けたのだろうか・・・。この辺りから道の脇にカタクリの群生が見られた。
尾根道を上がっていくと、道の真ん中に割れた岩が転がっていた。
道の脇の斜面には人工的に割ったような岩があり、道を開けるために割ってどかせたようにも見える。
ここからはきれいなまっすぐな道が続いていた。藪が刈られているのは巡視路として使われているからだが、昔の連絡道もこのようなものではなかったかと思われる。
まっすぐな尾根道を登っていくと、また割れた岩が現れた。この岩も道を開けるために砕いたようにも思える。なお、尾根下の斜面にも岩がいくつか転がっていたが割れていなかった。
そのまっすぐに続く急な尾根道を上り詰めると、また鉄塔に出た。九頭竜幹線84号鉄塔だ。藪が刈られていたのはここまで。ここから先は激藪だった。棘のある灌木がまとわりつき、歩きにくい。それでも、この時期なのでまだ何とか歩ける。また、尾根筋にはしっかりした踏み跡があるので、迷うことはない。
ところどころにピンクのテープがあった。先ほど花谷の方にお話を伺ったところ、花谷城山会と言うところで登山道開発を進めているそうだから、このテープも彼らのものなのかもしれない。なお、花谷から城山に登っていく登山道を整備したのも、この城山会の方々だ。
鉄塔からは対岸の浄法寺山や鷲ヶ岳が見られた。
上記写真のように藪が薄く歩きやすいところもあったが、ほとんどは灌木が行く手を邪魔して、中々前に進めなかった。この辺りでは常緑樹の椿が鬱陶しかった。
今日は地図もコンパスも持ってきていなかったが、上記写真のところでは少し展望が開け、小さなピークになっていたから地理院地図にあるP379mだと思われる。
この辺りでは灌木が密生しており、一番歩きにくかったが、この時期葉っぱがないので、歩けないことはない。
前にようやく稜線が見えてきた。城山から西に続く稜線だ。
ここまでの尾根筋は全く掘れていなかったが稜線に到達すると、掘れた道が現れた。この稜線には下からずっと登って来れる尾根道があったそうだから、その跡だと思われる。しかし、その掘れ方は浅い。
通行量の多かった道では急斜面で深くえぐれているのが普通だが、ここのは掘れ方が浅いから、それほど使われた道ではないように思える。
杉林の中に一本小さな山桜が咲いていた。公園に咲いている大量の桜より、薄暗くあまり光が当たらないような場所に少量咲いている桜のほうがきれいに見える。花の写真を撮るのが苦手な私だが、意外にきれいに撮れたので載せてみました。
途中痩せ尾根を通るところがあった。城跡から200mほどのところだと思う。敵が一度に攻めてこられないようにするための土橋の可能性もあるが・・・。すぐ下に林道が見えていたから、その工事で削られた可能性もあるが、斜面に生えていた木は古く、工事の所為ではないと思う。
そこからすぐに前方に林道が見えてきて、林道に降り立った。この道は永平寺緑の村四季の森文化館から尾根伝いに登って来ている林道城山線。
ここだけ、稜線が削られており、昔の道は消えてしまっている。それでも、のり面が急斜面になっていないので、そのまま下りて行けたのは幸いだった。
藪漕ぎで疲れたので、この後は林道を歩いて城山に行こうかとも思ったが、ここまで藪道を歩いてきたのだから、最後まで連絡道を歩こうと、また藪の中に入って行った。
藪がひどかったのは林道からの取り付きだけで、後はしっかりした道が残っていた。
城跡近くになると道幅が広がったが、掘れ方は変わらない。
すぐに花谷から登ってくる登山道分岐に来た。上記写真では見えてないが、真ん中に生えている木の後ろから登山道が登って来ている。
城跡には何度か来ており、特に関心はなかったが、ここまで来たのだからと山頂まで行ってみることに。
登山道を歩いていくと、深く掘れたところに来た。堀切跡だと思われる。ここから左のステップが切られた斜面に取り付き、山頂に進んで行った。
城跡はよく整備されており、歩きやすい。ところどころ階段も設けられている。
上記写真は山頂のある主郭と南郭を繋いでいた連絡道であるとともに、大量の敵が攻めて来られないように狭くなっており、土橋だとされている。
山頂の前にも堀切があり、山頂はこんもり盛り上がった塚のように見える。
山頂には永平寺町が建てた白い杭があり、越前波多野城址と書かれてある。
ここには三角点があり、以前にはなかったベンチが出来ていた。
山頂から北のほうは三段になった平坦地があり、ここにも郭があったとされている。下から見えていた平坦地はここだ。
はっきりは解らないが、中央の森の一郭が波多野館のはずだ。
帰りは先日歩いた花谷からの登山道を下りて行くことにした。急坂を下りて行くと、先日撤退していた場所に来た。先日は残雪があり、ここでコケて、撤退していたのだった。
その場所を通過し、林道終点に出た。ここから登山道(林道)を歩いて車に戻ろうと思ったが、先ほど尾根筋から下りていた掘れた道が気になったので、登山道途中にある巡視路入口から再度山に入った。
途中、展望が良い場所を通る。そこには石碑があるが何も書かれていない。
山頂から30分ほどで、巡視路入口についた。ここからステップが設けられた急登を登っていくと、すぐに先ほど歩いた荒土線20号鉄塔に着いた。
ここから再度連絡道を下りて行く。
5分ほどで、掘れた古道が合流していた地点に着いた。
そこから古道を歩いて行くことにした。この道はかなり使われていたようで、深く掘られた道跡が残っている。また、斜面にいくつか違った道跡が降りていたから、この辺の道は何度か付け替えられたようだ。
そのうち道は谷底を通るようになった。その辺りでもしっかりした道跡があった。この道が連絡道だった可能性もあるが、掘れた道が見られたのは連絡道の一部だけで、その可能性は低そうに思える。ただ、この道が何だったのか解らない。ここに峠道があったとは思えない。考えられるのは、掘れた道が途中で途切れていたから、途切れていた地点に炭焼き小屋か何かがあり、そこで採れた炭や何かを降ろすために使われた道なのかもしれない。
写真では良く解らないがこの斜面には新旧何本かの道が交差していたから、重要な道だったと思われる。
谷底に下りてきた所では掘れた道はなくなったが、よく踏まれた道が続いていた。
この道もここから巡視路となっているようで、標識があった。
しばらく下りて行くと、道は林道に合流した。この林道は谷口から溜池脇を通って、登って来ている林道だ。
上記写真に見えている堤の右隅にピンクのテープが見えたので、行ってみると、山道の入口があった。どうも、これが連絡道入口であるようだ。波多野館跡からまっすぐ登って来るとここに至る。地図を見ていてこの辺に入口があるのではないかと目星をつけていた場所だ。
藪っぽいがピンクのテープがあり、ここが連絡道の入口だと思われた。
連絡道入口のところまで堤を登って来る鉄製の階段があったから、ここが連絡道であることは間違いないと思われる。
山に入ると尾根に取り付くまで、かなりの急登だった。馬が登っていくにはちょっときつそうだ。
そこを入って行くと、ずっとピンクのテープがあり、そのほかに赤の杭や見たことのない白い杭もあったから、城跡調査か何かの時に埋められたものではないかと思われた。
この道は最初歩いた道に比べれば少し広く。藪を刈ればいい道になりそうだ。
この道筋にはよく見られる赤い杭に交じって、上記のような頭が白く塗られた杭があった。
その道は最初に歩いた道に合流した。上記地点が合流地点だが、この辺では連絡道の痕跡が薄く、見つけるのは難しい。白い杭もこの辺りでは消えていた。
連絡道はスタートした車を置いた地点に戻ってきた。今日は3時間も藪の中を歩き回り、充実した山歩きとなった。収穫も多い。ただ、700年もの歴史のある道にしては痕跡が薄かったのが残念だ。今日歩いた尾根筋を整備すれば、良い登山道になるだろう。途中カタクリが群生しているところもあり、人気のある登山道になるのではなかろうか。 |