日時

目的地

所在地

2018年11月15日

木地山峠(約920m)

勝山市北谷町中野俣/小松市新保町

 行動日程

峠道入口10:10~(峠道を歩く)~10:40峠道行止まり地点10:40~(沢を遡る)~11:15尾根に到達11:15~11:20木地山峠12:00~(沢を降る)~12:45峠道入口

 参考資料

Web情報:国土地理院/基準点成果等閲覧サービス(三角点情報)

文献  :

 これまでの山行記録

 

地図を全画面表示で開く

【地図の説明】 この地図はおおよそのルートをトレースしたもので、正確ではありませんので参考程度にとどめてください。最初はOpenCycleMapが表示されますが、地図の右上にあるボタンにポインターを持っていけば「OpenTopoMap」、「地理院地図」、「空中写真(航空写真)」に切り替えることができます。また、地図上のマーカーやラインなどにポインターを持っていくとその地点の地名や名称などが表示され、クリックすると詳しい説明が現れます。地図上の赤線が往路のルート。紫の線は旧峠道の推定ルート。緑線は帰路のルート。水色の線は沢筋です。

<<注:赤枠で囲った写真にマウスポインターを当てると、ルート表示や説明が現れます。>>

私のブログ「お気軽、里山歩き」に国道416号線の新又越部分が開通したとの記事を載せたら、私のブログを参考にせとものさんから木地山峠道を途中まで歩いたとの連絡を受けた。それに触発され、今度は逆にせとのもさんのブログ記事を参考に、木地山峠に再挑戦してみることにした。この峠には新又越から県境尾根伝いに何度か挑戦しているが、藪に阻まれ撤退していた。この峠は福井県勝山市北谷町中野俣(廃村)と石川県小松市新保を結んでいた、国境を越える峠だが、近くに大日峠、新又越があり、そちらが主流だったようで、江戸時代の地図には国境を越える峠として後者しか記載されていない。また、木地山とは木地師(轆轤師)が材料となる木を集めるために入った山で、中野俣のほうには大工山(これも木地師が入った山の呼称)と呼ばれる山もあったそうだ。なので、この峠はそれほど歩かれた峠ではなく、痕跡も薄いのではないかと思われたが、行ってみるとあに図らんや、立派な道が残っていたのでびっくりした。聞いた話によると、この立派な道には意外な歴史があるようだ。それについては後述します。

木地山峠を望む(国道416号線より)

今回、木地山峠へは国道416号線の県境(新又越)から石川県側に500mほど降りた、標高800m地点からアプローチすることにした。上記写真にマウスポインターを持っていくと、木地山峠の位置と今回歩いたルートが表示されます。

ここから峠道へ

せとものさんは上記地点から沢を遡られたそうだが、私にはあまり沢登りの経験はないので、せとものさんが帰りに見つけたという3m幅の道(結局この道は峠まで続いており、これを峠道としていいと思う、以後この道を峠道と呼ぶこととする)を歩いてみることにした。

登山口

沢のすぐそばに峠道の入口があった。藪はひどいがすぐに道の痕跡は解った。この道を峠に向けて進んでみる。

峠道の様子

峠道は藪がひどく、藪を避けるために道から離れることもあったが、途中には上記のような立派な道跡も見られた。1mほど掘られている立派な道だ。

崩れかかった峠道

峠道を更に進んでいくと、急斜面ではかなり崩れかかっているところもあったが元は3m幅があったものと思われる。近代になって造られた林道も放置されて時間が経つとこのようになるので、林道かとも思ったが、路面が砂利で補強されておらず、また轍もなかったので、近代になって造られた林道にしてはちょっと違和感があった。

切れ落ちた峠道

峠道を2、300m行くと沢にぶつかり、道はなくなった。しかし、対岸に道の続きのような切れ込みがあったので、いったん沢に降りて、再度その道に登り返すことにした。結局、対岸にこの道は続いていたので、昔はここに丸太橋のようなものがあったか、道が崩れ落ちてしまったようだ。

沢に降り、峠道に登り返す

沢までは10mほどの高低差があった。沢に降りると平坦な場所があり、羊歯植物が繁茂していた。また、ここで沢は二股に分かれていた。

峠道の様子

峠道までよじ登ると、上記のような立派な道がまた姿を現した。しかし、木の枝が張り出し、歩きづらいことこの上ない。かなり太い枝もあったから、歩かれなくなって50年以上は経つかもしれない。

峠道の様子

峠道が途切れる

峠道はまた2、300m行くと、沢にぶつかり途切れていた。ここから先の道のルートが解らない。ここから沢は二つに分かれ並行して走っていた、その二つの沢の間に踏跡のようなものがあったが、今までの幅広の道とは違うし、藪がひどい。それで、ここからは沢を遡ってみることにした。

沢を遡る

二本の沢が並行に走っていたので、最初左の沢を遡ったが、藪がひどくまた狭くなってきたので、右の沢を遡ることにした。こちらの沢のほうが広く、いくらか歩きやすい。峠道は正面の940mのピークの左側の肩にあるはずで、沢もそちらのほうに進んでいた。

ようやく県境尾根が見えてくる

沢歩きには慣れていないので、かなり長く感じたがようやく、行く手に尾根が見えてきた。尾根の手前で沢はまた二股に分かれていたので、歩きやすそうな右側の沢を選んだが、左側の沢が正解だった。

尾根の一段下に平坦地が

尾根に到達したが、峠らしきものがなかった。周囲を見渡すと左側に少し掘れたところがあったので、そこに行ってみると、先ほどの峠道らしきものが尾根まで上がってきていた。

木地山峠

峠部分は平坦で、尾根の少し手前に50㎝ほどの深さの穴があっただけだ。

ピンクのリボン

周囲の尾根筋を物色してみたが、尾根がU字に掘れた場所はなく、ここが峠だったとするしかない。この沢筋にはほとんど人工物や空き缶などのごみはなかったが、ここにはピンクのテープがぶら下がっていた。唯一の人工物だ。このピンクのテープはここが峠だと表示しているのだと思いたい。

正面は経ヶ岳か

峠の福井県側には経ヶ岳らしきピークが見えた。木々が邪魔してはっきりしないが、右側には荒島岳らしきピークもあった。

左手に三角点横平のピーク

左側(東側)には三角点:横平(1093.5m)のピークが見えていた。

峠から福井県側を見下ろす

しかし、福井県側には全く道の跡が見えない。

福井県側に道は見つからず

峠の下に道のような窪みがあったので、降りてみたがただの沢筋のようだった。その沢は右のほうに降りていたが、そこを覗き込んでも道らしきものも、踏跡も見当たらなかった。昔の地図を見ると中野俣に降りていく峠道は最初山の斜面をトラバースして進んでいたようだが、その辺りにも道の痕跡は見つからなかった。

峠道を降りてみる

石川県側にはかなり藪に覆われているが、しっかりした道が下りていた。ここも3m幅があった。

峠道の脇に小さな池

道は小さな池のふちを通って続いていた。

木地山峠を見上げる

帰りは峠道を降りていくことにした。

峠道の様子

峠道は100mほど行くと、小さな尾根を巻くように進んでいた。

谷筋に降りていく峠道

尾根から先を覗き込むと谷を巻くように降りて行っていたが、そこからは藪がひどく、降りていくのを断念した。そこからは寝た木が道に張り出し、降りていこうとするとかなり厄介そうだった。

沢を降りていく

それで、斜面をすべりおり、沢を歩いて戻ることにした。

途中にあった峠道の跡

沢を200mほど降りていくと、右岸に道跡があった。やはりここでもかなり広い幅がある。

同上

沢から峠道を見上げる

沢の様子

沢の右岸に続く峠道

何度か峠道のルートが解らなくなったが、沢の右岸に峠道が見え隠れしていた。

沢の様子

沢は特に危険な場所はなかったが、途中から水流が多くなり、歩きにくくなってきた。

沢の脇の踏跡

今見てきた峠道より古い道があったのかもしれないが、沢の脇に踏跡があった程度で、それが古い峠道だと断定できるようなものではなかった。

国道416号線の下に出る

沢は国道416号線にぶつかり、上記地点で終わりとなる。

新又越の旧峠道が通行止??

帰り道、新又越(福井・石川県境)に通りかかると、山の斜面に全面通行止の看板が置かれてあった。ちょうどその場所は新又越の古い峠道があったと思われる、ルート上。古い峠道は沢の一段上の急斜面にへばりつくように走っており、そのほとんどが道跡も解からないような状況だ。しかし、ここを歩く人がいたら危険なので、通行止の看板を立てたのだろうか疑問が沸いた。ちょうど、近くに国道ののり面を調査している方がおられたので、この看板について聞いてみたが、自分達は道路管理者ではなく、国道建設に携わっている測量会社の者なので、良く解らないとのことだった。しかし、この方が昔の峠道について詳しく、木地山峠についても聞いてみた。その方も3m幅の峠道についてご存じで、その道は国道建設前からあり、下からずっと続いていたとのことだった。人通りの少なかったと思われる木地山峠道に立派な道がついていることについて聞いてみると、意外な回答が返ってきた。この道は「罪人道」だという。「罪人道」と聞いて私は罪人を運んだ道かと思ったがそうではなく、罪人が造った道だという。この辺は江戸時代には天領だったそうで、そのお役人が通るために囚人を使役して造らせたというのだ。加賀藩の支藩大聖寺藩には加越国境を警備するための「奥駈道」というものがあった。この道も国境を見廻るために造らせたのではないだろうか。3m幅というより、1間半(2.7m)の規格ではなかったかと思う。加賀平野と鳥越村を結んでいた三坂峠などもこの規格に近い。これで、この道が峠でぷっつり途切れていたことの説明も付く。しかし、その測量事務所の方もこれは地元の方から聞いた話で、本当かどうかは解らないとのことであった。

帰って調べたら、確かにこの辺は江戸時代に天領だったことが解った。白山の登山口、白峰と同じくここも「白山麓18ケ村」に含まれていた。「白山麓18ケ村」は昔から越前・加賀藩の間で、帰属をめぐって争いがあり、江戸初期一旦は越前藩に含まれたが、その後も紛争が絶えないため、天領として統治されたようだ。しかし、この道が「罪人道」だったかどうかは解らなかった。なお、通行止の看板についてはこの国道の福井県側を管理している、奥越土木事務所に聞いたところ、峠付近にあった看板が風で飛ばされただけだったことが解った。ちょうど古い峠道のルート上にあったし、看板の足が地面に突き刺さるように福井県側を向いて置かれてあったので誤解してしまったが、ただの偶然だったようだ。ただ、この看板があったおかげで、「罪人道」について知ることができたのだから、ただの偶然ではなく、天のお導きだったのかもしれない。

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