日時 |
目的地 |
所在地 |
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2019年2月27日 |
矢戸坂第二峠(仮称・約600m) |
勝山市鹿谷町矢戸口/大野市大矢戸 |
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行動日程 |
林道入口11:55~12:10二つの大岩12:10~12:30滝がある分岐(道迷い)12:50~13:10杉の植林地入口13:10~(草地の急登)~14:00尾根14:00~14:05矢戸坂第二峠14:25~(植林地内の峠道跡)~14:45植林地出口14:45~15:40林道入口 |
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参考資料 |
Web情報:国土地理院/基準点成果等閲覧サービス(三角点情報) 文献 : |
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これまでの山行記録 |
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<<注:赤枠で囲った写真にマウスポインターを当てると、ルート表示や説明が現れます。>> 前々から気になっていた峠に挑戦することにした。その峠は3年前に矢戸坂に行ったとき(その時の峠行はこちら)に見つけたもので、文献を見てもここに峠があったとの情報はなく、それが本当に峠だったのかどうかも解からないでいた。その時は峠道の存在を確認できなかったが、今回峠道があったと思われるところを歩き、その峠に行き着くことができた。長く峠歩きをやってきたが、偶然に峠らしい窪みを見つけ、それが本当に峠だったことを確認できたのは今回が初めて。ほかにも知られていない、無名峠があるかもしれないと思うと、峠行のモチベーションが上がる。
勝山市鹿谷町は三方を山に囲まれており、今は人通りのないひっそりとしたところだが、昔は福井から九頭竜川左岸を通って勝山市街や大野に向かうためには鹿谷を通って峠を越えるルートが使われていたようだ。鹿谷町には遅羽口、矢戸口など山ひとつ越した先の村落名を付けた地名が残っていることからも、交通の要衝だったことが解る。鹿谷から大野に向かうためにはこの峠の隣にあった矢戸坂が主として使われていたから、この峠はその代替路または時代によってはこちらの道が使われていた可能性もある。と言うのは今国土地理院の地形図に破線で載っている矢戸坂には殆ど痕跡が残っていないからだ。なお、この峠について文献を当たってみたが情報はなく、また地元の人に峠の名前を聞いてみたが知らないということなので、ここでは矢戸坂第二峠としておく。鹿谷町矢戸口の村はずれから更に細い谷筋を南に進む。谷あいまで田んぼが整然と並んでいる。その最奥部までやってきた。ここから林道が二本山の中に延びている。地形図では西側の林道から山を越して福井市芦見地区まで破線で道が描かれている。その峠道も歩いてみたがひどく荒れており、今後の宿題としたい。
矢戸坂第二峠に至る林道入口には林道馬舟線と書かれてあった。『馬舟』とは珍しい名前なので、地元の人に聞いてみたがその由来は良く解らなかった。峠道はここから沢沿いを進んでいたものと思われた。
林道はよく整備されており、歩きやすい。道の脇には小さな小屋などがあり、いくらか使われているようだ。
500mほど進んでいくと、林道終点となった。ここに軽トラが停まっており、作業をしている地元の方がいたので、お話を伺うと、確かにこの道は昔は峠道として使われており、この道を使って大野や美山のほうに行ったことがあるとのことだったので、矢戸坂第二峠はこの道で間違いないようだ。しかし、最近は山に入る人もなく、道がどうなっているか解らないとのことだった。昭和3,40年代までは山に入る人もあり、村総出で道の整備もしていたそうだ。また、この辺りは炭焼きが盛んだったようで道跡の脇には炭焼き窯跡がいくつか見られた。
道跡と思われる平坦地がかなり残っており、解りやすい。道跡は何度か沢を渡渉し進んでいる。
しかし、上記地点で沢が二つに分かれており、どちらを遡ればいいのか迷った挙句に逆のほうに行ってしまった。
ここから右側の沢に進んだが、左の沢が正解だった。この後も沢が二股になったところがあったが左に左に進んでいけば迷うことはないだろう。ここにあった二つの大岩の間を通り、左側の沢を遡る。
左側の沢沿いにかなり広い平坦地があり、それがもとの峠道だったようだ。倒木があり藪がひどかったので敬遠したがこちらの道が元の峠道だったようだ。最初この道を進んだが、藪がひどく進めなくなった。反対側の岸を見るとそこにも薄っすら道跡があったので、沢を渡渉しそちら側を歩くことにした。この道は人一人が通れるほどの道幅だったから、上記の平坦地に本来の峠道があったと思われる。元々は1間ほどの幅があったのかもしれない。
途中、炭焼き窯だと思われる丸い窪みが2,3か所あった。上記写真では解りづらいが丸く石垣が積んである。
峠道は沢の近くを進んでいたが、上記辺りから道跡が荒れてきて、歩きづらくなってきた。我慢して道跡らしきところを進んでいったが、帰りに確認したところ沢から一段上に踏み跡があり、そちらを歩けば楽だったようだ。しかし、その道は人一人が通れる幅で、後世になって山仕事の人が通る作業道だったのではないかと思う。また、沢沿いの道は荒れやすく、道が付け替えられた可能性もある。よく注意してみると沢の両側に道跡(踏み跡)が見られた。
沢の左岸を進んでいくとまた二股が現れた。右側に道のような平坦地があったのでそちらに進んでみた。
すると、行く手に滝が現れた。そこを巻いて進んでいく道跡らしきものもなかったので、道を間違えたことが解り、分岐まで戻った。
やはり、この二股でも左が正解だった。
ここまで杉林の中を進んできたが、ここからは景色ががらりと変わり、枯れた草むらの中を進んで行くことになる。今の時期だから歩けるが、草が繁茂するとこの辺は歩けなくなるだろう。草地が始まるところが急な斜面となっているので、ここに峠道があったとは思えなかったので、逆に行ってしまったのだ。
草地を進んで行くと前に杉の植林地が現れた。先ほどお会いした地元の人が県有林があると言っていたので、これがそうかもしれない。この周りは草地や雑木林だったが、ここだけ杉林となっていた。
ここから杉林の中を進むのが正解だったが、ここでも道を間違い。草ぼうぼうの急斜面を進んでしまった。何せ峠道のルートが解らないのだから仕方がない。一旦、杉林のほうに足を踏み入れたのだが、崖のようになっていたので、ここに峠道があったとは思えなかった。しかし、後で杉林の中に峠道があったことが解った。今日はすべて裏目に出ている。杉林の中を進んでいればそれほど苦労せずに峠に到達していただろうが、草地を選んだためにえらい苦労させられた。滑りやすい、崖のような急斜面に悪戦苦闘しながら登っていった。後で調べたところ、滑りやすい急斜面を150mほど直登したようだ。
草木にしがみつきながら、急斜面を登っていく。息も絶え絶えだ。何度も何度も休憩しながら進んで行く。対岸の山は名前も解からないが、669.4mの三角点「皿谷」がある山だと思われる。右の奥辺りが保田経ヶ岳だ。
諦めかけていたがようやく上に峠があると思われる稜線が近づいてきた。気力をふりしぼり、草木にしがみつきながら、歩を進める。この時期でなければ草がひどく登れなかっただろう。
悪戦苦闘1時間でようやく尾根に到達した。しかし、そこに峠はなかった。この尾根は一度歩いているので、峠より北のほうに出てきたことが解った。
尾根からは大野盆地が望めた。ここから見ると雄大だ。尾根道はこの時期にかかわらず、藪っぽい。いばらの道を100mほど進むと峠が見えてきた。
ここには2本の掘れた峠がある。北側の峠跡のほうが弱冠掘れ方が浅いが、ほとんど差はない。
そこから10mも進まないところにまた掘れた峠の跡がある。こんな近くに二本の峠跡があるのは珍しい。その理由は不明だが、何らかの理由で道筋が変わったのだろう。
もっと浅い印象があったが、改めて見てみるとかなり深く掘れており、峠と峠の間が小山のようになっている。
前回来たときははっきり解らなかったが大矢戸側(大野側)にはつづら折りに降りていく道跡が確認できた。
矢戸口側も覗いてみたら、薄っすら切れ込みがあった。これが峠道に違いない。帰りも先ほどの急斜面を降りないといけないと覚悟していたので、ほっとした。
しばらく休んで、イノシシの足跡でぬかるんだ切れ込みを降りていく。
峠道の跡は杉林の中に進んでいた。最初かなりはっきり道跡があったが50mほどでその道跡も解からなくなった。ここも急斜面なので、峠道はつづら折りに降りていたと思われるが、その痕跡ははっきりしない。
しかし、作業道のような小径が縦横無尽に走っていたので、それほど苦も無く降りていくことができた。
20分ほどで先ほど道に迷った地点に来てしまった。
急斜面の草地を進んでしまったが、ここでは杉の植林地の中を進まねばならなかったのだった。
1時間ほどで下まで降りてきた。先ほどの人に石田三成の墓があると聞いたので行ってみた。関ヶ原の戦いに敗れた石田三成の子孫がここにたどり着き、住み着いたのだそうだ。矢戸口にはその末裔だといわれる石田姓の家が存在しているそうだ。
小さなこの古そうな墓が三成の墓だと思われる。
墓に至る山道は一部掘れたところがあり、時代を感じさせた。 |